上野寛永寺
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上野 寛永寺
江戸の鬼門を守り続けた
将軍家の菩提寺

寛永寺は、江戸時代に徳川家康の側近だった天海僧正によって開山された上野公園内にある寺院です。東の比叡山という意味で東叡山という山号があります。比叡山が京都の北東(鬼門)の方角にあって京都御所を守ってきたように、寛永寺は江戸城の北東にあって江戸を守ってきました。増上寺と共に徳川家の祈祷所・菩提寺を勤めてきた寺院でもあります。

この記事では、寛永寺の魅力や見どころをご紹介しましょう。

江戸を守り続けた
寺院の歴史

根本中堂(上野寛永寺)

根本中堂

寛永寺は1625年、徳川家康の側近だった天海僧正の進言により徳川家光が創建した寺院です。開山は天海僧正が勤めました。増上寺と共に徳川家の菩提寺となり、15人の歴代将軍のうち6人がこの寺院に眠っています。

最盛期の寛永寺の境内は、現在の上野公園を中心に35万坪もの広さがありました。根本中堂(総本堂)は間口45m・高さ32m・奥行き42mの壮大なものだったと伝えられています。その他、小堀遠州作の名園・清水観音堂・不忍池辯天堂・ 五重塔・開山堂・大仏殿などの伽藍を有し、各大名の寄進による子院は36坊にのぼりました。

徳川家の庇護を受けて栄華を誇った寛永寺ですが、幕末に起こった戊辰戦争で境内に彰義隊が立てこもったため、伽藍のほとんどが兵火によって灰になります。明治になると寺領のほとんどを新政府に没収され、かつての勢いは失われてしまいました。

寛永寺の復興がようやく認められたのは、1879年(明治12年)のことです。川越喜多院より本地堂を移築し、現在の根本中堂(総本堂)としました。その後、関東大震災や戦争の空襲など数々の災害に見舞われたものの、それを乗り越えて現在まで多くの人々の信仰を集めています。

歴史ある
寺院の魅力

江戸時代の初めに建立された歴史ある寛永寺には、色々な魅力があります。ここでは、特に一押しをご紹介しましょう。

境内の自然を堪能する

不忍池(上野公園)

寛永寺の境内は、東京の中でも最も自然が豊かな場所の一つです。江戸時代から風光明媚な観光地として栄えた場所であったため、不忍池をはじめ季節の花や緑を愛でられる所がたくさんあります。

特に、桜は東京有数の名所として有名です。歴史ある建物と桜の組み合わではとても美しく、一見の価値があります。

寺院に伝わる文化財を見学する

徳川家の菩提寺だった寛永寺は、歴史的価値の高い建物や品物を多数所蔵しています。境内から自由に見学できる物もあれば徳川将軍御霊廟のように事前に申し込みが必要な物もありますので、見学したいものがある方は事前に公式サイトなどを調べておくといいですね。境内を歩くだけでも、重要文化財に指定された建物をたくさん見学できます。

広い境内の
見どころ

寛永寺の広い境内には見どころがたくさんあります。ここでは、その中でもおすすめの物をご紹介しましょう。

明治に移築された根本中堂

根本中堂(上野寛永寺)

根本中堂

根本中堂(こんぽんちゅうどう)とは総本堂のことです。創建当時の建物は戊辰戦争の際に焼失してしまいました。現在の根本中堂は、川越喜多院の本地堂を移築した物です。中には最澄が自刻したと伝えられている薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を、秘仏としてお祀りしています。

天海僧正をお祀りした開山堂

開山堂(上野寛永寺)

開山堂

開山とは、寺院を開いた僧侶のことです。開山堂では寛永寺を開山した天海僧正と、彼が心より尊敬していた慈惠大師良源(じえだいしりょうげん)を祀っています。2人の大師を祀っていることから別名「両大師」とも呼ばれ、江戸時代から人々の信仰を集めてきました。現在の建物は1993年(平成5年)に再建されたものです。

京都の清水寺を模した清水観音堂

清水観音堂(上野寛永寺)

清水観音堂

重要文化財に指定されている清水観音堂は、京都の清水寺を模した舞台造りのお堂です。清水寺から招いた恵心僧都(えしんそうず)作の仏像を祀っています。

この他、境内には150年ぶりに復元された歌川広重作の浮世絵「江戸名所百景」に描かれている月の松があり、一見の価値ありです。毎年9月には人形供養が行われています。

竹生島になぞらえた不忍池辯天堂

不忍池辯天堂(上野寛永寺)

不忍池辯天堂

不忍池のほぼ中央に建つ辯天堂は、開山、天海僧正が琵琶湖の竹生島になぞらえて建立しました。不忍池は天然の池ですが、辨天堂が建つ中之島は人工的に造られた島です。御本尊の八臂大辯財天は、琵琶湖の竹生島の宝厳寺から勧請されました。毎月初巳の日には縁日が開かれ、大勢の参拝客でにぎわいます。

将軍が眠る徳川歴代将軍御霊廟

徳川歴代将軍御霊廟(上野寛永寺)

徳川歴代将軍御霊廟

重要文化財に指定されている徳川歴代将軍御霊廟には、6人の徳川将軍が埋葬されています。第二次世界大戦中に建物のほとんど焼失してしまいましたが、壮麗な勅額門と水盤舎・宝塔は難を逃れました。廟内は長らく非公開でしたが、現在は事前に申し込めば参拝することができます。

弾痕が残る寛永寺旧本坊表門

旧本坊表門(上野寛永寺)

旧本坊表門

江戸時代、寛永寺の本坊は現在の東京国立博物館が建っている場所にありました。寛永寺旧本坊表門は当時の本坊の表門です。江戸時代の寛永寺を偲ぶことができる貴重な建造物で、重要文化財に指定されています。門のあちこちに戊辰戦争の時に撃ちこまれた弾痕が残っていることでも有名です。

頭部だけが残る上野大仏(パコダ)

上野大仏(上野寛永寺)

上野大仏

1631年に造られた上野大仏は、高さ約6mの釈迦如来坐像でした。何度も災害を乗り越えてきた仏様でしたが、関東大震災に罹災した際に首が落ちてしまいます。その後大仏は再建されることなく、胴体は第二次世界大戦中に軍に徴収されてしまいました。

現在は唯一残った頭部がレリーフとして祀られ、落ちない大仏として受験生の信仰を集めています。レリーフの近くに造られたパゴダに祀られているのは、旧薬師堂本尊の薬師三尊像です。

上野大仏 詳細・アクセス情報

時を告げ続ける時鐘堂

時鐘堂(上野寛永寺)

時鐘堂

時鐘堂は1669年に設けられ、1787年に改鋳された鐘がつるされているお堂です。その名の通り、現在も朝夕6時と正午に時を知らせています。毎年12月31日に撞かれる除夜の鐘は、申し込めば一般の方でも参加可能です。

天海僧正を偲ぶ天海僧正毛髪塔

開山、天海僧正は1643年に没し、日光山輪王寺に埋葬されました。寛永寺の境内には弟子の晃海(こうかい)が僧正の供養塔を建立します。後に伝来してきた僧正の毛髪を収めた宝塔が同じ場所に建立されたため、毛髪塔と呼ばれるようになりました。

上野動物園内に建つ旧寛永寺五重塔

五重塔(上野寛永寺)

五重塔

重要文化財に指定されている旧寛永寺五重塔は、1639年に再建されたものです。高さは36mあり、当時としては高層建築物でした。1層には、釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の四方仏が祀られています。現在五重塔は上野動物園内敷地内にあり、見学するには動物園に入場する必要があるので要注意です。

寛永寺
アクセス情報

住所:東京都台東区上野桜木1丁目14番11号
電話番号:03-3821-4440
拝観時間:建物により異なる
拝観料:境内自由(拝観料が必要な建物も有り)
駐車場:上野公園の駐車場を利用
交通案内:JR鶯谷駅より徒歩10分(根本中堂)
公式サイトhttp://kaneiji.jp/

寛永寺

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