清涼寺
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京都 清涼寺(嵯峨釈迦堂)
国宝・重文の寺宝を収蔵する
由緒ある寺院

清涼寺は京都嵯峨野に位置する浄土宗の寺院です。宋から持ち帰られた釈迦如来立像が安置されていることから嵯峨釈迦堂とも呼ばれています。平安初期に建立された大変歴史の古い寺院で、国宝や重文に指定された寺宝を所蔵していることでも有名です。

この記事では、清涼寺の魅力や見どころをご紹介しましょう。

釈迦如来を祀る
清涼寺の歴史

多宝塔(清涼寺)

多宝塔

現在の清涼寺は、棲霞寺(せいかじ)と清凉寺という二つの寺院が一つになったものです。この項では、2つの寺院が歩んだ歴史をかいつまんでご紹介しましょう。

源融の別荘だった棲霞寺

棲霞寺は、清涼寺の母体ともいえる寺院です。平安時代初期、嵯峨天皇の皇子である左大臣、源融(みなもとのとおる)の一周忌に、息子の昇が建立したと伝えられています。寺院は源融の別荘であった栖霞観(せいかかん)を改築して建立され、源融が生前造立を願いながら果たせなかった釈迦三尊像が造られ祀られました。

三国伝来の仏像を祀る清凉寺

清涼寺は、東大寺出身の僧侶、奝然(ちょうねん)が宋で作らせた釈迦如来立像を祀るために建立されました。釈迦如来立像は、仏陀(ぶっだ)存命中にインドの王がセンダンの木で作らせた像を復刻させたもので、三国伝来の釈迦像・生きているお釈迦さまとも呼ばれる立派なものです。

奝然は中国から持ち帰ったこの仏像を安置する寺院を建立しようと活動を始めましたが、比叡山延暦寺の反対にあって叶いませんでした。奝然の死後、弟子の盛算(じょうさん)がこの願いを引き継ぎ、1016年に棲霞寺の境内に寺院を建立します。これが、清凉寺の始まりです。

一つになった寺院

平安末期から鎌倉時代にかけて、奝然が持ち帰った釈迦如来立像は多くの人々の信仰を集めました。浄土宗の開祖である法然上人も、24歳の時に釈迦如来立像をお祀りするお堂で修業をしています。釈迦如来立像の模造品もたくさん作られました。これは、今でも、嵯峨式釈迦像(さがしきしゃかぞう)と言う名で仏像形式の一つになっています。釈迦如来立像は仏教の宗派を超えて信仰を集め、すべての宗派の僧が清凉寺に修行に集まりました。

室町時代に起こった応仁の乱で二寺院の伽藍はすべて焼失してしまいますが、1602年に豊臣秀頼の寄進により再建されます。しかし、その後も天災や火災により伽藍は焼失と再建を繰り返しました。

江戸時代になると、徳川家康が浄土宗に帰依していたことから清凉寺は正式に浄土宗の寺院となります。その一方で棲霞寺は次第に衰退していき、ついに釈迦三尊像と釈迦三尊像を祀る阿弥陀堂を残すのみとなってしまいました。

現在、二つの寺院は清凉寺という一つの寺院となっており、嵯峨釈迦堂として現在も人々の信仰をあつめ続けています。

歴史ある
清凉寺の魅力

清凉寺は宗派を超えて多くの人々の信仰を集め続ける歴史ある寺院です。この項では、清凉寺の魅力をご紹介しましょう。

四季折々の美しさ

白梅(清涼寺)

境内に咲く白梅

清凉寺の境内には、たくさんの草木が植えられており、1年を通してさまざまな風景を楽しむことができます。中でも、歴史ある伽藍の建物と紅葉の組み合わせは見事です。

早春になると、境内には色とりどりの梅が咲きます。紅梅や白梅・一重咲き・八重咲きなど、種類もさまざまです。境内を散策してお気に入りの一本を見つける楽しみもあります。

名妓を偲ぶ夕霧供養

清涼寺では1年を通じてさまざまな行事が行われていますが、特に名高いのが毎年11月に行われる夕霧供養です。夕霧供養は江戸時代に大阪で名をはせた名妓、夕霧太夫を偲ぶ行事で、島原太夫による奉納舞や太夫道中・墓参が行われます。ちなみに、井筒生八つ橋本舗から発売されている夕霧という八つ橋は、彼女の名にちなんだものです。

信仰を集めた
清凉寺の見どころ

清凉寺は何度も災害や火災に見舞われており、現存している建物のほとんどが江戸時代に再建されたものです。この項では、再建された伽藍群の中でも一押しの見どころをご紹介しましょう。

嵯峨野の顔でもある仁王門

仁王門(清涼寺)

仁王門

清凉寺の仁王門は1790年代に再建されました。和様と禅宗様が入り混じった二層の門で、一層(一階)には室町時代に作られた仁王像を祀っています。二層(二階)に祀られてるのは十六羅漢です。仁王門は寺院の表玄関であると同時に、嵯峨野の調度真ん中に位置しているため、嵯峨野の顔ともいわれています。京都府の指定文化財にも指定されている歴史的価値の高い門です。

釈迦如来立像を祀る本堂(釈迦堂)

本堂(清涼寺)

本堂(釈迦堂)

清凉寺の本堂は釈迦堂とも呼ばれ、国宝の三国伝来生身釈迦如来像をお祀りしています。本堂は江戸時代初期の嵯峨大火で一度焼失してしまいましたが、1716年に再建されました。門と同じく和様と禅宗様を折衷した建物で、本山級の風格を持ちます。

釈迦如来立像が安置されている内々陣の宮殿厨子は、五代将軍徳川綱吉とその生母である桂昌院(けいしょういん)の寄進によるものです。本堂正面楣上には黄檗隠元(おうばくいんげん)禅師筆による栴檀瑞像(せんだんずいぞう)の大額が掲げられています。京都府指定の文化財であり、清凉寺の中心です。

棲霞寺の名残である阿弥陀堂

阿弥陀堂(清涼寺)

阿弥陀堂

本堂の東側に位置する阿弥陀堂は、棲霞寺の名残です。清凉寺の発展と反比例するように棲霞寺は勢いを失ってしまい、阿弥陀堂だけが残りました。早春になると、阿弥陀堂前には美しい梅が咲きます。

輪蔵が安置された一切経蔵

輪蔵(清涼寺)

一切経蔵に納められている輪蔵

一切経蔵には、お経が納められている輪蔵(りんぞう)という巨大な厨子(ずし)が安置されています。輪蔵は、一度回転させると一切経を一読した効果があるといわれ、平安時代から室町時代にかけて盛んに造られました。現在は非公開となっている寺院が多い中、清凉寺の輪蔵は有料で回すことができます。高さが2m近くある巨大なもので、美しい装飾が施されているのが特徴です。経蔵の前には笑い仏と呼ばれる傅大士父子像が祀られています。

神仏習合の名残 愛宕権現社

愛宕権現社(あたごごんげんしゃ)は火災防止の神様で、鷹ヶ峰から愛宕山山頂に神社を移す際、一度ここでお祀りをした跡地です。神仏分離令が発布される以前は寺院の境内に神社があることも珍しくなく、愛宕権現神社の神事も清凉寺境内で行われていたと伝えられています。

聖徳太子殿

聖徳太子殿(清涼寺)

聖徳太子殿

法隆寺の夢殿を模して建てられたことから、聖徳太子殿という名前がついています。別名を八角堂ともいい、文字どおり八角形をした建物です。

狂言が演じられる狂言堂

狂言堂では、春と秋に嵯峨野念仏狂言が行われます。能の間に演じられる狂言とは違い、一種の無言劇です。壬生狂言と同じ流れを組み、円覚上人(えんかくじょうにん)によって造られたと伝わっています。

歴史ある鐘楼

鐘楼(清涼寺)

鐘楼

鐘楼に吊るされた梵鐘には、室町時代の将軍足利義政などの銘が刻まれています。鐘楼自体はこぢんまりとした建物です。

池の中に建つ弁天堂

弁天堂(清涼寺)

弁天堂

境内にある放生池の中には、弁天堂が建っています。小さな社で、弁天様をお祀りするものです。秋になると紅葉が見事な場所として知られています。

大方丈付属の書院

清凉寺の大方丈は、住職が暮らす場所としての役割を果たしていました。書院は方丈に付属しており、宇喜多秀家の正室樹正院(じゅせいいん)が隠居した場所です。大方丈には、小堀遠州が作庭した美しい庭が面しています。

国宝を収蔵する霊宝館(宝物殿)

霊宝館は寺宝を収蔵する宝物殿です。国宝である旧棲霞寺本尊阿弥陀三尊像や重要文化財の四天王像・木造の地蔵菩薩立像など、国宝や重要文化財が数多く収蔵されています。公開時期は毎年4・5・10・11月です。

こぢんまりとした西門

清凉寺の西門は仁王門とは対照的に一層のこぢんまりとした門です。歴史の風格を感じさせる古色蒼然とした造りで、瓦屋根を持ちます。

清涼寺
まとめ

いかがでしたか? 今回は清凉寺の見どころや魅力をご紹介しました。清涼寺は嵯峨釈迦堂の名で知られる嵯峨野でも人気の観光スポットです。春と秋には境内の花々が見頃を迎えるとともに霊宝館も公開され、多くの観光客が訪れます。ゆっくりと寺宝や境内を見学したいという場合は、平日の午前中がおすすめです。

清涼寺
アクセス情報

住所:京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
電話番号:075-861-0304
拝観時間:9~17時(季節によって変動あり)
拝観料:大人400円・中高生300円・小学生200円
駐車場:あり
交通案内:京福嵐山駅より徒歩5分
公式サイトhttp://seiryoji.or.jp

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