宝福寺は、安土桃山時代に下田に建立された浄土真宗の寺院です。勝海舟が第15代土佐藩主、山内容堂と坂本龍馬が脱藩をした罪の許しを乞う会談を行った場所でもあります。また、日米和平交渉の時には日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれました。
今回は、このような歴史的な出来事の舞台にもなった宝福寺の見どころをご紹介します。
幕末に注目
宝福寺の歴史
宝福寺は幕末に重要な会談の舞台となったり奉行所がおかれたりして、一躍脚光を浴びました。ここでは宝福寺の歴史についてご紹介します。
勝海舟が脱藩の許しを乞うた場所
宝福寺は1559年の開基以来、浄土真宗の寺院として地元の方々の信仰を集めてきました。宝福寺が歴史の表舞台に登場したのは、1863年のことです。宝福寺に滞在していた第15代土佐藩主山内容堂の元へ勝海舟が訪れました。勝海舟は、山内容堂へ弟子の坂本龍馬が土佐藩を脱藩した罪の許しを乞うたのです。この会談は成功し、坂本龍馬の脱藩の罪は許されました。
下田奉行所が置かれた場所
下田は1854年に日米和親条約締結後、函館とともに日本で一番最初に開港された場所です。この日米和親条約が締結される際、宝福寺に下田奉行所が置かれ、日本全権の本陣になりました。明治になると宝福寺は菊のご紋章の使用を許されます。その後は第一回徴兵検査の会場になったりと、公共施設的な役割も多く果たしました。
当時のままの
謁見の間
宝福寺には、第15代土佐藩主山内容堂に勝海舟が謁見した部屋が、当時のままの姿で残されています。部屋の中には山内容堂が勝海舟にお酒を勧めたときに使われた朱の大杯(実物)。山内容堂の肉筆の絵が描かれた扇子(レプリカ)・当日のことを記した勝海舟の日記などが展示されています。幕末好きの方にはどれも一見の価値があるものばかりです。
唐人お吉の
眠る墓
宝福寺は唐人お吉の菩提寺でもあります。唐人お吉は、幕末にアメリカ総領事タウンゼントハリスの元へ奉公へあがった女性です。外国人への偏見が厳しい時代でしたので、奉公を辞めた後もお吉は厳しい偏見の目にさらされました。
お吉の死後、宝福寺の第十五代竹岡大乗住職は、引き取り手のない彼女の遺体を手厚く葬ったと伝えられています。現在、宝福寺ではお吉のお墓の他に彼女の写真や実際に使用した装飾品やお吉人形などを見ることができます。
宝福寺
アクセス情報
住所:静岡県下田市1-18-26
電話番号:0558-22-0960
拝観時間:8~17時 年中無休
拝観料:大人400円 中高生200円 小学生以下無料
駐車場:20台
交通案内:伊豆急下田駅から徒歩5分
公式サイト:http://www.i-younet.ne.jp/~hofukuji/access.html