静岡市清水区の駿河湾を望む高台に建つ清見寺は、約1,300年の歴史を持つ臨済宗の寺院です。家康が今川義元の人質だった頃、教育を受けた場所としても知られています。境内は国の名勝に指定された庭園や家康が教育を受けた手習いの間など、見どころが豊富です。戦前には与謝野晶子や夏目漱石・島崎藤村など多くの文人が訪れました。
この記事では、清見寺の歴史や見どころをご紹介しましょう。
奈良時代から続く
寺院の歴史
7世紀後半、清見関という関所の脇に造られた仏堂が清見寺の始まりです。その頃の東北には朝廷に従わない蝦夷という一族がおり、関所は蝦夷の侵攻を防ぐため、仏堂は国家安泰を願って建てられたと伝えられています。平安時代になると仏堂は天台宗の寺院になりました。
鎌倉時代になると禅宗が広まり、清見寺は関聖上人(かんせいしょうにん)によって禅宗の寺院として再興されます。室町時代になると足利尊氏をはじめ代々の将軍の庇護を受け、全国十刹に指定されました。
戦国時代になると、寺院とその近郊は海と山が迫る天然の要塞として戦の時は格好の陣地になったと伝えられています。今川・徳川・武田・北条などの諸大名が清見寺に陣を敷いたため、寺院は荒れ果ててしまいました。その後、清見寺は今川義元の家臣であった臨済宗の僧・ 太原崇孚(たいげんすうふ)により、再度復興されます。太原和尚は、幼少期に今川義元の人質だった徳川家康を清見寺で教育した人物としても有名です。
江戸時代になると清見寺は徳川家康をはじめとする徳川家の深い帰依を受けて大いに栄え、朝鮮通信使の宿泊場所や接待場所にもなりました。明治維新の際には影響を受けましたが荒廃することはなく、人々の篤い信仰に支えられて現在に至ります。
篤い信仰を集める
寺院の見どころ
清見寺は室町時代から時の将軍をはじめとし、多くの人々の篤い信仰を集めてきました。ここでは、そんな寺院の見どころをご紹介します。
通信使筆の扁額が掲げられた総門
寺院の入り口の総門には、朝鮮通信使・錦谷居士筆の扁額が掲げられています。清見寺は1607年から、朝鮮通信使の宿泊場所や接待場所になってきました。そのため、この額をはじめとして通信使や随行員が残した歴史的資料が数多く保管されています。門は大きくはありませんが、歴史の風格を感じさせる造りです。
左甚五郎の弟子が設計した山門
1651年に建造された山門は、日光東照宮の眠り猫を彫ったことで有名な左甚五郎の弟子が設計しました。釘を一本も使っておらず、虹梁上の彫刻が見事です。建造された当初は檜皮葺でしたが、現在は瓦葺きに改築されています。
家康の姫君が寄進した大玄関
唐破風造りの大玄関は、1616年に家康の姫君の寄進によって建造されました。天井板は清見関の古材を使用したもので、血の跡が残る血天井です。
手習いの間が保存されている大方丈
大方丈には十一面観世音菩薩が安置されている他、正面に琉球王子筆の扁額が掲げられ、両脇の壁面には朝鮮通信使作の詩文が飾られています。これらは、江戸時代の国際交流を示す資料の一つです。西の間の奥には、家康が太原和尚に教育を受けた手習いの間が保存されています。
釈迦如来像が祀られた仏殿
現在の仏殿は1842年に再建されたものです。正面には徳川家康の三女、静照院が寄進した釈迦如来像が安置されています。その後ろには清見寺を開山したり再興したりした僧正達の木造も安置され、寺院の歴史が感じられる場所です。
明治天皇が休息した書院
1876年に建造された書院は華やかさこそありませんが、上品で落ち着いた美しさがある座敷です。明治天皇が東京に行幸される際、この書院で休息されました。
趣きがある庫裏
庫裏とは寺に住む人々が生活する場です。瓦葺の2階建ての建物で、書院同様華やかさはありませんが古い建物特有の趣きが感じられます。
昔は潮騒が聞こえた潮音閣
潮音閣は庫裏から南の階段を上ったところにある広い座敷です。かつてはここまで駿河湾の潮騒が聞こえたことから、潮音閣と名付けられました。座敷からは晴れていれば相模湾が一望できます。
鎌倉時代末期の梵鐘がある鐘楼
清見寺の鐘楼は1863年に造られ、中に吊るされた梵鐘は鎌倉時代末期の1314年に鋳造されました。この梵鐘は豊臣秀吉が伊豆韮山城を侵攻した際に、陣中で使ったと伝わっています。
家康の意向を取り入れた庭園
国指定の名勝である庭園は、家康の意向を取り入れ山本道斎によって作られました。築山池泉回遊鑑賞園で、駿府城より運ばれた虎石・亀石・牛石が置かれています。馬蹄型の池が特徴です。
清見寺
アクセス情報
住所:静岡県静岡市清水区興津清見寺町418-1
電話番号:054-369-0028
拝観時間:8~16時30分
駐車場:あり
交通案内:JR清水駅から三俣山の手線バス乗車、清見寺前下車、徒歩すぐ
公式サイト:http://seikenji.com